執行役人を除けば、死刑囚にとって教誨師は最後に会う民間人。
教誨師協会の会長も務めた方から聞いた事を綴った本の内容をラジオで紹介していた。
死を強く意識せざるを得ない死刑囚に寄り添う精神的に過酷な役目だが、これは僧侶や神父など宗教関係者が無償で務められる事が多いらしい。
執行までの何年、長ければ何十年の間、面談を経た相手を死へ送り出すのはかなり辛いらしい。
それまで会ったこともない人間から、会話を交わし少しでも相手に関心を持った時点で相手は自分にとって特別な人間。教誨師を務めるほどの方々なら心は強かろうといえどもやはり辛いことなんだろうな。
そして目から鱗。
教誨師が心労の果てにアルコール依存症となり入院した先で、入院患者達が心を開いている相手が清掃に来るおばさん達であったということ。医者やカウンセラーが充分に揃っていても、彼等から感じる微妙な「〇〇してあげる」感を敬遠し、何もできないのを承知の上でうんうんと相槌を打つだけの清掃者に本心を打ち明ける、と教誨師が気付き、自分に「何かをしてあげられる」との思いがなかったかと問うたというところ。
僕は比較的自分の能力について悲観的だと思っていたけれど、「ポジティブシンキング」とか「可能性思考」とか耳に心地よい虚言に踊らされていなかったか?その影響で他者との意思疎通がうまくいかない事が多いのではないか?と自問したよ。
自分では謙虚を心掛けているつもりでも深層心理の傲慢さが滲み出てきてしまうとそれは他者を遠ざけてしまう。心の底から「自分にできる事は少ない」と自覚する事が他者との意思疎通を円滑にするのに必要なのでは考えたよ。