鎮西八郎源為朝が剛弓引き絞り、次々と敵騎馬武者を射落とし、、の逸話で有名な保元の乱。
教科書的には、この内紛の果てに摂関藤原氏は没落、皇室による親政が権力を取り戻した、のですね。
後白河天皇方:藤原忠通、源義朝、平清盛 etc
崇徳上皇方 :藤原信頼、源為義・為朝親子、平忠正 etc
「保元物語」によれば、後白河方600の軍勢が崇徳方が籠る東三条殿へ夜襲を掛け、一進一退の末に後白河方が勝利を得ました。
崇徳上皇は讃岐へ、源為朝は八丈島へ流され、藤原信頼は戦時に受けた傷により敗死、そして、、
これが衝撃だったそうです
泰平の平安京で数百年行われなかった死刑が実施
しかも処刑されたのは勝者側源義朝の実父為義
厳しい
こういった内乱って、後の応仁の乱しかり、戦後の推移をみると誰が勝者なのかなかなかわかりにくいんですね。勝者のはずの藤原忠通は何故か勢威を落としましたし、、NHK大河ドラマ「平清盛」も分かりやすくするにはどうすればよいか、相当苦心したことと思います。