秀吉は鳥取城下の米を高値で買い占め、近隣の民を城へ追い込み、毛利からの輸送路を遮断した。(陰徳太平記による)
追い込みにより兵1400+民2000の人員になり、食糧は二十日分ほどしかなかったようです。籠城四ヶ月で悲惨な有り様となり、守将吉川経家の命と引き換えに城は落ちました。飢えた城兵が、落城後食事を与えられたところが、急に食を取ったショックで命を失う、という悲劇もみられたそうです。世に「鳥取の渇え殺し」と呼ばれる秀吉の兵糧攻めでした。三木、鳥取、備中高松、、輝かしい太閣記の裏側ですね。
現在、久松山に残る石垣等の遺構は、江戸時代に池田藩による大改修を施されたものです。御三層櫓などの再建が計画されているようです。