登頂するの目的とした登山は、登頂しきれなければ達成感が得られない。
綺麗にするのを目的とした掃除は、面倒さとの比較次第で義務感に苛まれる。
足下や景色を素直に楽しむ登山ができれば、
自分の心を整える掃除ができれば、
それは幸せへの近道かもしれない。
そもそも何かを目的にそれを叶えるべく手段を講じるのは、もうAIの方がよほど上手にできてしまうし。
目的と手段の思考ではAIにはもう敵わないし、幸せにもなりきれないかもしれない。
NHK第二の宗教の時間で放送されていた。
禅僧が修行の一環として行う作務(さむ)は、
掃除のようなことを必ずしも機械的合理的には行われない。
それは掃除の目的がそこを綺麗にすること、だけではなく、
自分自身の心を整え、そして現場を、そして世界を、整える、ということにもあるのだからと説かれていた。
掃除好きの人にはわかるかもだけれど、掃除の結果、確かに現場は綺麗になるけれど、
それより自分の心そのものの快感がうれしかったりもするよね。
趣味だったものが、儲けること成功することをを目的とした仕事にすると途端に苦痛になることとか。