親鸞が「念仏を唱えても気分が晴れないんだよな」と言ったとの記事が歎異抄にあり、世界で最も有名な教祖が「神よなぜ私を見捨てたもうか」と叫んだとの記事が福音書にある。
一見開祖自身による宗教否定のようなこれらの記事だが、これこそ宗教最大の課題「信じられないものをどう信じるか」を露わにしたものなのではないかとも思われる。
歎異抄の記事の事は、NHK第二ラジオ講座で耳に飛び込んで来て目から鱗だった。後で書籍を買い読んだらたしかにそんな記事がある。
福音書の記事は、新約聖書中の各福音書にしっかり記載されている。一見神否定のようなこの文言はライトノベル「とある魔術の禁書目録」でも黒魔術のネタにすらされている。
一見すると開祖が神仏を否定するような都合の悪い記事をどうして残すのか、なんだけれど、、これこそが宗教の本質を表しているから記事を消すわけにはいかなかった、のではないのかな。
神仏が存在するのならどうしてこの世はこんなに矛盾に溢れているのか、私は神仏を信じない!という怒りこそが真剣な信教につながる、というのは、迫害者が聖人と崇められるほどの信者に変わる事例からもある話。
悪人正機説風に言えば、神仏万歳と迷いなく礼賛できるようなおめでたい人々に神仏の必要性は少なく、矛盾に晒され何をどのように信ずればよいのかの手立てがない迷える子羊を救うためにこそ神仏の必要があることになる。
ある宗教家の先生が、最近哲学の講義で講師として呼ばれることがあった、とおっしゃっていた。
哲学は人の理性を尊重するもの。一見神学とは相容れないがその実、「どのように生きるかもとい何をどのように信じて生きるか」という命題を抱えているのは共通かも、と得心した。
何をどのように信じて生きるか。これが確立できればそれは本当に幸せだろうな。ただそれがなかなかできないからこそ宗教や哲学が発展してきた、とも言える。
これほどの科学万能の時代にあってそれでも精神的につらい人々が多い事実に、宗教や哲学の価値を見出すことができる。